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竹中正久暗殺事件とは?生い立ちから山一抗争

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目次

竹中正久暗殺事件とは?

①竹中正久の生い立ち

竹中正久は兵庫県飾磨郡御国野村(現在の姫路市)で生まれました。祖父は助役、父は村議会議員という家柄でしたが、12歳のときに父を亡くしたことが彼の人生を大きく変える転機になりました。旧制姫路市立鷺城中学校に進学しましたが中退。その後は暴力事件や傷害事件を繰り返し、たびたび逮捕される荒れた青春を送りました。

しかし、その中で地元の不良たちをまとめあげ、1960年に「竹中組」を結成。ここから彼のヤクザとしての道が本格的に始まります。幼少期からの苦難が、のちの彼の「強さ」や「武闘派」と呼ばれる姿につながっていったのです。

やはり父を早くに亡くした影響は大きかったと言われています。周囲の大人たちの世界に早く飛び込み、自分の立場を力で築こうとしました。

②山口組入りと若頭補佐に昇格

竹中は弟・英男を通じて山口組と接点を持つようになります。最初はそこまで山口組に執着していなかったとされますが、若頭の地道行雄に才能を見込まれ、1961年に田岡一雄から直参として迎え入れられました。

その後は数々の抗争で存在感を示し、特に1962年の「博多事件」では数百人の部隊を率いて乗り込み、山健組の山本健一から厚い信頼を得ました。1971年には若頭補佐に抜擢され、名実ともに山口組の中枢になりました。

③四代目就任と山一抗争

1981年に三代目組長・田岡一雄が亡くなると、山口組は大きな転換期を迎えます。後継をめぐる対立の中、1984年に竹中が四代目を継承することが決定しました。これに強く反発した山広派は離脱し、一和会を結成。ここから有名な「山一抗争」が始まります。

当時の構成員数では一和会のほうが優勢でしたが、竹中の徹底的な攻撃によって次第に追い込まれていきました。この圧倒的な攻めの姿勢が、一和会に「暗殺」という最後の手段を取らせる原因になっていきます。

まさにカリスマ性が裏目に出た瞬間です。攻め続ける竹中に対して、一和会は正面から勝てないと判断した…その緊張感は計り知れません。

④暗殺事件前夜の状況

1984年夏に和歌山県串本町で発生した事件をきっかけに抗争が激化。竹中は「義絶状」を送り、一和会との関係を完全に断ち切りました。年末には山口組が14,000人、一和会は2,800人と、圧倒的に差がついていました。

追い詰められた一和会は暗殺計画を具体化。大阪府吹田市の「GSハイム第二江坂」のマンションに竹中の愛人が住んでいることを突き止め、潜入と監視を開始しました。拳銃を準備し、訓練を重ね、決行の日を待っていたのです。

⑤吹田市江坂での銃撃と死去

1985年1月26日、竹中は山口組本部の上棟式に出席した後、夜に「GSハイム第二江坂」を訪れました。エレベーター前で待ち伏せしていた一和会の実行犯に銃撃され、側近の中山勝正とともに倒れます。

竹中は銃弾を受けながらも自力で車に乗り込み、病院へ搬送されましたが、9時間の手術もむなしく翌27日に死亡。中山も同じく命を落としました。

山口組はわずか半年で組長と若頭を同時に失うという前代未聞の事態に直面し、山一抗争はさらに激しさを増していくことになります。

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竹中正久暗殺事件が起きた背景

①山口組内の権力争い

竹中正久暗殺事件の背景には、山口組内部の激しい権力争いがありました。1981年、三代目組長・田岡一雄が亡くなると、誰が後継者になるのかを巡って組織が大きく揺れました。候補には竹中正久や山本広この二人による組の意見が真っ二つに分かれたのです。

権力争いは単なる人事ではなく、組織全体の利益や威信が絡んでいました。だからこそ、抗争が避けられないほど深刻化したのです。力を持つ者が次のトップになる世界では、一度対立が生まれると、最悪命をかけた争いにまで発展してしまいます。

竹中が四代目に就任したことで、山口組の中ではまとまるようには見えましたが、それに納得できない派閥が山口組を離脱するという結果になってしまいました。

②一和会結成による分裂

1984年、竹中が四代目を継承したことに反発した山広派は、山口組を脱退し「一和会」を結成しました。これが最大の転機です。一和会は当初、構成員数が山口組を上回るほどの勢力を誇っていました。

しかし、数の優位がありましたが山口組の切り崩しなどによって、次第に劣勢になっていきます。焦りを募らせた一和会は、正面からの抗争では勝てないと悟り、暗殺計画へと舵を切っていったのです。

分裂の瞬間から、もはや後戻りはできませんでした。竹中にとっても一和会は「煙たい存在」でしたし、一和会にとって竹中は「最大の障害」になっていました。

③義絶状と緊張の高まり

1984年8月、和歌山県串本町で発生した事件をきっかけに抗争が激化します。竹中は「義絶状」を送り、一和会との関係を完全に断絶しました。この行動は、友誼団体や周囲に「一和会は認めない」と示す強烈なメッセージになりました。

義絶状は一和会にとって大きな打撃でした。組織としての正当性が失われ、孤立を深めることになったからです。反論の書状を出すなど一和会も抵抗しましたが、すでに流れは山口組優位に傾いていました。

組織の世界で「絶縁」は最も重い制裁のひとつ。それを突きつけられた一和会は、事実上の死刑宣告を受けたも同然でした。だからこそ、暗殺という最後の手段に出ざるを得なかったのです。

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竹中正久暗殺事件の流れ

①一和会の暗殺計画

1984年夏の時点で、一和会は山口組に押されて劣勢でした。山口組の圧倒的な攻撃性と組織力に対抗できないと悟った一和会は、四代目組長の暗殺という最終手段を選びました。首謀者は一和会二代目山広組若頭・後藤栄治。彼が中心となって行動隊を結成し、計画を具体化していきます。

暗殺計画は単なる思いつきではなく、組織ぐるみの徹底した準備に基づいていました。まるで軍事作戦のように、役割を分担し、潜伏先や武器の調達まで周到に進めていきます。

この時点で竹中の命運はすでに狙われており、抗争がどれほど深刻だったかがよく分かります。

②マンション潜入と監視体制

暗殺計画のカギを握ったのは、竹中の私生活に関する情報でした。1984年10月、一和会の幹部・石川裕雄は、大阪府吹田市にある「GSハイム第二江坂」のマンションに竹中の愛人が住んでいることを突き止めます。

石川は204号室を借り受け、そこを監視拠点に設定。無線機を設置して仲間と連絡を取り合い、竹中の行動パターンを逐一把握していきました。同時に、別のマンションも借りて武器庫として利用。まさに包囲網を作り上げていったのです。

愛人宅が狙われるというのは、組長といえども「人間としての弱点」を突かれた形でした。

③拳銃調達と試射

実行部隊は武装を整える必要がありました。1985年1月、後藤は行動隊長の長野修一に対し、複数の拳銃を手渡しました。

彼らは三重県の山中で試し撃ちを行い、銃の性能や使用方法を確認しました。実戦に備えてのリハーサルのようなものです。単なる突発的な犯行ではなく、徹底した準備が行われていたことがよくわかります。

このあたりの周到さは、やはり組織的な犯行の特徴ですね。恐ろしいほど計算され尽くしていました。

④山口組本部上棟式

1985年1月26日、神戸市で山口組本部の上棟式が行われました。竹中は幹部を引き連れ、組織の威信を示す場に堂々と姿を見せました。組長としての存在感を内外に示す意味がありました。

しかし、これが彼の生前最後の公式行事となります。上棟式を終えたその夜、竹中は大阪へと向かい、運命の地「GSハイム第二江坂」に姿を現すのです。

一和会にとっては、まさに絶好のタイミングでした。

⑤GSハイム第二江坂での襲撃

1985年1月26日21時15分頃、竹中は若頭・中山勝正、南力組長とともに「GSハイム第二江坂」に到着しました。エレベーター前で待ち伏せしていた実行犯が突如銃撃。南力組長は即死、竹中も3発の銃弾を受けて倒れました。

それでも竹中は驚異的な執念を見せ、血まみれの状態で自ら車に乗り込み、病院へ運ばれました。この場面は彼の「武闘派」としての生き様を象徴しているようにも思えます。

襲撃の瞬間は、まさに一和会の計画が結実した瞬間でした。

⑥搬送と死亡確認

竹中は大阪警察病院に搬送され、9時間に及ぶ手術を受けました。組員たちが輸血を申し出るほどの必死の救命活動が行われましたが、1月27日23時25分、死亡が確認されました。同行していた中山勝正も同日に息を引き取りました。

仮通夜は同日夜、兵庫県神戸市の旧田岡邸で営まれ、1月31日には密葬が執り行われました。山口組はわずか半年で組長と若頭を同時に失うという異例の事態に陥ったのです。

こうして「竹中正久暗殺事件」は、裏社会だけでなく社会全体を揺るがす歴史的事件となりました。

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